輪の国スタッフおすすめお立ち寄り情報 『内湖の今を走る』

「びわこじてんしゃ 2018 春 Vol.11」より

すいかイラスト   ビワイチ途中、近江八幡を北上しようとするとき、長命寺町の交差点を左に入り湖岸を走るのか、そのまま右のルートを行くのか迷うことがある。景観が良く、適度なアップダウンも楽しめる湖岸のルートを選ぶことも多い。しかし、今は右の平坦な道を行くことにしよう。

 この辺りが干拓地であるのを知る人も多いと思う。大中の干拓の歴史は意外に新しく、戦後に入ってからになる。付近に見られる肉牛の飼育、大中スイカの販売等は、干拓後の農業政策として始まったものだ。

内湖地図 もともとこの辺りには、大中の湖、西の湖、弁天内湖、伊庭内湖があった。安土城跡を訪れたことのある人は、信長の建てたこの城が三方を湖に囲まれた天然の要害であったことを知っているだろう。かつて安土山は弁天内湖と伊庭内湖の間に突き出ていたのだ。これらの内湖は食料対策のため戦時中昭和17年から戦後にかけて開拓された。大中の湖は戦後昭和21年から22年もの歳月をかけて干拓されている。西の湖も干拓される予定だったが、昭和28年の台風の被害によって計画が変更される。その結果、今は西の湖だけが残り、湿地の生態系保全の場となっている。時代の綾を思う。

安土城考古学博物館イラスト 一度は右側のルートを更に右に入り、県道526号を走ってみてほしい。この道はかつて西の湖、弁天内湖、伊庭内湖と大中の湖を分けていた中洲の上を走っている。途中にある大中の湖南遺跡は、古の時代から人々が、内湖の水環境を利用して生活を営んできた場所である。遺跡には現在、石碑と数枚の説明版、崩れかけた竪穴式住居の復元があるだけだが、安土城考古博物館まで足を延ばせば、発掘調査の内容を知ることができる。安土山に登り、琵琶湖の方向を眺めれば、いかに大きな自然のかたちが人によって変えられたかを実感できるだろう。かの信長も驚くに違いない。

 干拓地を抜ける道はフラットで走りやすい。しかし、ここに至る時の流れは決して平坦ではなかった。

(南井 良彦)


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